親-子 パワーゲーム
ある少年から相談を受けた
学校もない今スマホで友達とコミュニケーションを取りたいが親が厳しく満足に通話させて貰えないそうだ
親の言い分としては夜遅くまで通話してしまうからダメはよ寝ろ
ということらしい
しかしながら彼としては休みの今だから気が済むまでやらせて欲しいし、満足さえすればそんな長時間の通話にはいつか飽きて程々にする
いつまでも続けないから許して欲しいという
こういうパターンはよくある大人が子どもに性悪説的な立場から制限を言いつける
大人がしっかり導いてあげなければ子どもはよからぬ方へといってしまうのだ!と
子どもは親のお金でスマホを買って貰っているし、家も服も食べるのだって親がいなければ供給されることは無いので完全に人権が無い
子どもにできることはただ感謝し、親に従うのみなのだ
親は子に言うことを聞かせる場合この圧倒的パワーの押しつけでどうにでもできてしまう
スマホ禁止なら禁止で取り上げてしまえばもう子どもは為す術がないわけで
子どもに納得させる必要すら無い
このような理不尽を受けながら子どもたちは耐え、過酷な環境に順応していくのである
アンフェアな親子関係を解消するには
子は親がいないと死んでしまうという状況を解消する必要がある
子どもはその親が育てるものだというのではなく、社会全体で育てていくのだといった意識で家庭以外でも生きていく選択肢がその子にあれば親の圧倒的優位性は緩和され、1人の人間として子どもが扱われる可能性が高くなるのではないか?と考える
ただしそのために乗り越えなくてはいけない壁は厚く
お金が儲かるか儲からないかで考える商業主義が支配的な現状ではこのような福祉の精神はとてもじゃないが人々の心の中に芽生えることは無いだろう
保育士や介護、福祉関係の仕事が儲からず割に合わない仕事とされているこの世界では
人のためにを第一に考えるという基礎中の基礎が抜け落ちている限り
人のためのルールか?ルールのための人か?が分からなくってしまう
そうして度々転倒現象が見られる
人のために作られたはずのお金のために人が命を落とさなくてはならないような状況を招くこれでは金のための人ではないか?
結局乗り越えなくてはいけないのは目先の一時的な損得を追う貧しい発想だ
子どもたちを未来を苦しめるこのような浅はかな考えだ
自分にあげられるものなら全部あげたい
でもそれをしてしまったらお金が稼げずに死んでしまう
お金で何でもできすぎるが故にお金が無いと何もできなさすぎるのはかえって不便だ
便利な交換のツールとして生まれたはずのお金が支配と暴力のための凶器になっている