退職届1

家は自宅で家賃無し、1日1食0.8人前、最期に服を買ったのは6年前。

欲しいものはそんなに無くて、あったとしても学生のバイトで買える範囲のものだ。

毎月の最大の出費は納税。

 

とにかくお金よりも時間が欲しい。誰にも過ごし方を制限されない時間を湯水のようにジャブジャブと使いながら数学の勉強をしたり散歩をしたり昼寝をしてゆっくりと過ごしたい。それが1番の贅沢だと思っている。お金をかけなくても何かものすごい特技が無くても案外やろうと思えば実現できてしまうこんなちっぽけな贅沢が何故だかとても難しい事のように思えてしまうのは何故なのだろう?

 

多くの人にとって1日24時間をフリーに使えてどう過ごすのかを自分で決めなくてはいけないという事はストレスなのかも知れない。

学校で朝から夕方まで拘束されて1日の半分以上の過ごし方をある程度決めて貰う生活をする。学生を卒業してそのまま会社に勤めたとしてもそれは変わらない。

休日も遊びの予定を入れたりしてスケジュールに穴が空くことを極力避けようとする。

そういう感覚を持った人が多数派なのかな?

 

自分はスケジュールが埋まっていることにストレスを感じてしまう。

この日は何時から何かしなければいけないというのが何だがムズムズしてしまう。

真っ白なスケジュールでよし一日中今日はこの本の理解を進めていくぞ!とか何もしないでごろごろぼーっと過ごそうとか気分で決めたい。

 

こんな性格をしているので組織に属して何かすることには適性が薄い。

社会人の真似事をしてみているけれど毎日会社に一日中拘束されて使いもしない給料の大半が銀行に貯まっていくこの日々には無駄が多いと感じている。

最小の拘束時間で最低限のお金を手に入れることができればもっともっと本に時間を書けて楽しく自分の世界を開拓できるのになという気持ちがどうしても常に湧いてくる。

社会との関わり方、距離感をじっくり考えて考えて自分の身の置き方を決めなくてはならない。自己犠牲的な努力で無理矢理社会に適合しようとしてもその先に幸福があるとは到底思えない。別の切り口から自分の人生を使って実験しなくては。既存のシステムに乗っかって幸せでいられる人種だったらどれ程楽だっただろうか?そんな愚痴をこぼしたところでこう在る事実は変わらないので、開き直ってとことん自分の世界を拡げていこうと思う。ひとりくらいそういう変なのがいても面白くないですか?流行の多様性ってことでどうかご容赦頂きたい。

 

人体は大部分が水でできているぞ!みたいな話はよく聞くけれど、社会の大部分は幻想でできていると思う。

その時代の人たちがみんなで信じ、疑いようが無いとされているものを人は真実と名付け呼んでいる。

どこの誰が決めたのかも分からない幸せの定義をありがたがってそれが手に入らないといって嘆く。

何が勝ちで何が負けかなんてそもそも人生は競争ではないのにね。

よくよく立ち止まって考えてみることもなく、ただなんとなくそれっぽい一般論に乗っかってみる。毎日スケジュール帳一杯に予定が詰まっている人たちは忙しいから立ち止まったりしないのかも知れない。

泳ぎ続けないと死んでしまう魚のように行動し続けていくのが自然な在り方なのかも知れない。

こぎ続けないと倒れてしまう自転車のように営業し続けないと潰れてしまうお店。

感染症の危機が迫ったとしてもこの社会は止まることができない。

そんなブレーキの壊れた(そもそも止まることを想定しないで設計されているのかも知れない)この構造に何だか病的なものを感じる。

 

別に自分は革命家になりたいわけではなくて新しいよりアップグレードされた社会システムを考えて広めていくぞ!とか人々の在り方を改めるため啓蒙していくぞ!みたいな大きなモチベーションは無い。

ただ社会が変わらなくても自分の周りの小さな世界、或いは自分の中に広がる世界に限定すれば革命は起こせるのかも知れないなと考えていてそうすることでひとりで満足して死んでいければいい。それが自分の信じる幻想だと思う。

みんなと同じ夢は見ないけど違う夢を見て生きていく。信じる神が違うというだけの話。