分かりやすいが毒になる

基本的に分かりやすいということは喜ばしいことだ。

分かりやすい教材、分かりやすい授業は学習者の理解を助けてくれる。

しかし分かりやすさを手放しに喜んでもいられないのではないか?

その可能性について言及したい。

 

大体の入試問題は教科書や問題集を理解し、その内容を用いて解決することができる。なのでやはり分かりやすいということは基本的には良いことなのである。

ただし一定以上のレベルの入試問題ではそれでは対応できない問題も出題されるようになってくる。

問題文である説明がなされ解答者は試験会場でそれを読み、その場で理解し問題の解決を迫られる。

この手の問題に蓄えた知識を役立てることは難しい。

勿論説明を理解するためのバックグラウンドとして知識が役に立つということはあるだろう。

だがこの問題で問われるのは学習能力そのものである。

そして学習能力というのは教科書や問題集の解説を読み、理解するという日常学習の中で日々磨かれていくものだ。

何を説明しているのか?扱っている概念がどのようなものなのか?はじめは理解に苦しみながらも何度もじっくりと読み返し、考え、触れていくうちにすっと腑に落ちる瞬間がある。そういう過程を経て知識を自分のものにしていくこの経験は学習能力を磨く上では欠かせない。

正しく学ぶ姿勢を身に付けられているか?本学で学ぶことのできる学生であるか?を知るための出題として学習能力そのものを問うような問題は大学側の学びに対する真摯な姿勢が見て取れる問題だと言ってもいいだろう。

それ故に名門校であればあるほどこの手の出題はされやすい傾向にあり、教育改革でより本質的な学びが求められるようになっていくと幅広いレベルの学校で出題頻度も増えていくことが予想さる。

 

懇切丁寧なわかりやすい解説が学習者から立ち止まり、悩み、考えるといった学習能力を鍛えるためのプロセスを奪ってしまうのではないか?

それは学習者にとって大きな機会損失となってしまうのではないか?

たまには頭の中をはてなでいっぱいにしながら悶々と過ごしてみるのも良いのかも知れない。